SARUYA HOSTELは築90年の古民家を改装し2015年7月にできた。富士山の麓にある山梨県富士吉田市の昭和の香り漂う閑静な街並みの中に位置し、徒歩圏内にはレトロな喫茶店やバーなどがあり、昼夜の散策や富士山の眺望を街の中からも周辺の山々からも楽しむことができる。

SARUYA HOSTELは草の根的に始まり、ここまでゆっくりと持続的に歩んできた。ここでは、どのようにSARUYA HOSTELのアイデアが実現させたのか、どのようにして空き家から宿になったのかなど、SARUYA HOSTELのできるまでを思い出しながら書いてみた。

始まった地域を再活性化する取り組み

富士吉田では大体10年前から、官学連携として大学生によるフィールドワークが行われ、その中から富士吉田に新たな活力を与え活性化させることを目的とし、富士吉田みんなの貯金箱財団(以下、財団)が設立された。今考えると、財団が出来たことが街の変化をもたらしたのだと思う。

今、株式会社DOSO (SARUYA HOSTEL)の代表をしている私は、偶然が重なり、友人に誘われるという形で2014年の4月に東京から縁があって移住し財団に務めはじめた。
私が富士吉田に来たの財団には代表の齊藤智彦やアーティストの南條俊輔や地域おこし協力隊のメンバー三人(SARUYAの設立メンバーの赤松智志も含む)がいた。むかし、氷を作っていた富士製氷という工場を拠点としてスタートしたばかりだった。あの時の財団は空き家の暗い雰囲気に囲まれた状況であったが、皆、新天地でその時の希望と不安を楽しんでいた。

手探りで始めた地域での仕事も1年が過ぎた頃、外部から富士吉田に見学にくる人に、数日間滞在してもらいたいという声や、観光客を誘致するために宿が必要だということが財団で話題になった気がする。今では多くの観光客が行く新倉山浅間公園(忠霊塔と地域の人は呼ぶ)がネットを中心に話題になり始め、世の中ではAirbnbなどのサービスも始まり、宿泊施設を初めることのハードルが下がり始めていた。そんな状況も助け、赤松智志と共に宿を作ることにした。

SARUYA HOSTEL 本館のリフォーム前と後。かつては2つの建物があった場所が、現在は1つの建物になっているSARUYA HOSTEL 本館。右手の暖簾の奥がエントランスとレセプション、左手のリユースした木サッシの奥には快適なラウンジがある。

SARUYAの名前の由来

多くの人になぜSARUYAなのかと聞かれる。多くの事業者が経験することだとは思うけれど、自分たちも名前をつける時、色々なアイディアを一応まじめに考えた。あまり定かではないけれど、はじめは「灯台」的な意味を持たせようと英語で考えていた気がする。ただ結果は、富士山が「庚申」の年に出来たということを知り、街との関係という点で「SARU=猿」に決めた。それに「YA=屋」をつけた。

去年、あるお寺の和尚さんから「サルヤっていい名前だね。申は漢字で渦を意味していて、中心って意味があるんです。街の中心…アジアでは雲を描くとき渦を描く…つまり雲と中心=神を意味していて…仏教発祥の土地インドでも猿は愛され…etc」だから富士山は申年と関係しているのかと、非常に納得した。偶然ではあるけれど、街の象徴である富士山との関係を望んで選んだ名前は、自分たちが望むものを表していた。

SARUYA HOSTEL 別館のリフォーム前と後。別館ができる前、この小さな通りには「ハモニカ」と呼ばれる小さな飲み屋が6軒ありました。日本では、1階に店舗、2階に住居というスタイルが多く見られました。その内の3つ飲み屋を繋げ、4部屋(2階に2部屋、1階に2部屋)、シャワールーム、キッチン、2つのお手洗いに改装しました。

メタボ(新陳代謝)

当時を思い出しながら書いているのだけれど、そういえば「新陳代謝」って言ってたなと思い出した。SARUYAを始めたとき、二丁目商店街にはSARUYAもなく、「カレー屋」もなく「蔵」もなく、レコードや文具を売っていた笠原や果物屋雨宮がまだ空き家で残っていて、昔からの商店街とシャッターと、通り抜けていく車たち(時折大型トラックが走る)という状態だった。ただ、富士山だけは商店街の目の前に変わらずいた。今は商店街からの富士山の写真を撮りに来る観光客も増えてきた。最近気がついたことで、「二丁目商店街」とgoogleで検索するとSARUYAの目の前の商店街が検索トップにくる。こんな状況は当時想像できなかったが、そのポテンシャルを信じて、当時、美容室と洋服屋が入っていた空き家を借りてSARUYAをリノベーションした。

レセプションエリア、テーブル、キッチンエリアのリフォーム前と後の写真。リフォーム後の写真では、左手に新しく作られたラウンジへのスライドドアの入り口が見えます。テーブルの近くにはペレットストーブがあり、小さな火を楽しむことができます。

地元の大工さんと一緒に自分たちも作業した。30年近く使っていなかっただけあって、埃が酷かったが、ひたすら解体。教えてもらいながら壁を作ったり天井を作った。そうして、本館が完成した。その後、別館、本館の拡大、アーティストレジデンスもセルフリノベーションした。別館は昔、ハモニカ横丁と呼ばれ、女性たちが小さな飲み屋を営んでいたらしい。西裏の飲み屋街がSARUYAのある付近まで続いていたということになる。新宿のゴールデン街のスモール版という感じで、小川が流れ自然との距離が近い夜の街がこの辺り(富士吉田市下吉田地区)にあった。戦後栄た繁華街と商業エリアが住宅街と密接になった状態、多くの人が入りくんだ活気のある街だったに違いない。

SARUYA HOSTEL ラウンジのリフォーム前と後の写真。開放的な空間にしようと思い、1階と2階の間の天井を取り払い、木の梁だけを残しました。この部屋では他にも、新しい壁、木製の窓、石材の床などをリフォームしました。床の修復に使われた石は、大谷石という特殊な火山灰の石で、大谷の石切場まで取りに行きました。

不完全という完全

SARUYAを作っていくとき、できるだけ、既存のものを活かそうと話し合って決めた。そのままだと、汚く見えるかもしれない。構造は変えずに、要所要所に既存の梁を見せたり、壁を残してみたり、耐震との兼ね合いも難しかった。例えば、窓も見る人に大きな印象を与える要素という事もやりながら理解した。できるだけ、建具職人の技術が見えるサッシを使った。あと、防寒の為に木サッシを二重に使う事や、アルミサッシと木サッシを二重に使う事がこの地方の気候には合うんだなと、機屋工場に見学した時に気がついた。なので、数年後に二重にすることになった。地域の人たちが、家を解体する時に時々呼んでくれた。そこで、もらった木サッシを使用したり、もらってきたテーブルなどもきれいにして、今お客さんが仕事できるようにSARUYAのロビーに並べている。食器棚も近くの大星さん(LONGTEMPS)からもらったものを直して使っている。

セルフリノベーションすることで、多くの箇所が完璧ではないのだけど、完璧ではない美しさもあると思っている。フランスの大学時代、不完全の完全について友人と話していたのを思い出す。どこかがまだ完璧ではない状態があることで、可能性を見出すことができる。田舎街の人の手が入っていない風景と、人が整理した風景が入り込んだ状態。やりすぎない状態が実は完全なのではないだろうかという、哲学じみたことを学生時代話していた。

フランスではよくセルフリノベーションをする。大工仕事だけでなく畑や庭作業も自分たちでする。自分で建てた家と庭と畑、庭にはシーツが干してあったりする。それをイメージしてSARUYAの庭でもシーツを干している。何か言葉で表現はできないけれど、あーっと声を出すお客さんがいる。そんな時は、共感できたかなと嬉しい。

SARUYAにある物が主張しすぎず、調和がとれ、風景として美しいと感じてもらえる空間を作りたいと思う。ただそれって維持って事だったり、日々の掃除だったり。兎にも角にも、こうのような形で2015年7月にSARUYA HOSTELがオープンした。この記事を書いている今スタートから6年が経った。今までSARUYAに泊まってくれた方々、支えてくれたスタッフや友人に感謝し、これからもみんなの様々な思い出の場所になるように日々過ごそうと思う。

ドミトリー部屋のリフォーム前と後の写真。左側の壁にはタイルのシンクがありました。